#9成長のプロセス21.12版

僕は自分のことを嫉妬深い人間だと思っている。それは日常の端々にも見られる。

例えば、お洒落なコートが欲しいと思っている時電車でも駅でもすれ違う人のコートばかり見て「欲しい、ずるい」とずっと思っている。また自分の好きなアーティストについて自分の周りで自分より詳しい人がいると「こいつどこまで詳しいねん」とよくわからない角度から妬んでしまう。

そして、自分でもよくわからない悔しさが自分の中に生まれた時、僕は出来る限りすぐ行動に移している。苦しくない範囲で。インスタでコートの投稿をとりあえず見漁り、なんなら店に行って試着や受注までする。ネットですぐにそのアーティストについて調べとりあえずそのアーティスト関連のものを見まくる。

その衝動が一度落ち着いて振り返ってみると、その分野について前より詳しくなり、自分の中の教養が多くなっている気がする。

 

つまり、何が言いたいかと言うと、このしょうもない悔しさと突発的な行動は自分の教養の枠を広げ、自分を一回り大きくしているのではないかということだ。そして、結果的により多角的な価値観で物事を判断できるようになり、より客観的判断ができるようになるのではないか。

さらに、突発的な行動は保険をかけたがる自分に検討の余裕を与えない。とりあえずリスクは度外視して、その自分が体験したことのないものを体験しに行く。稚拙な経験ばかりのこの人生において、この衝動に従った行動はだいたい失敗がない、というより失敗はないとさえ思う。まともに生きていたら出会うことのないはずの人と出会い、本来するはずでない経験が積める。その経験は成功も失敗も、上手も下手もない次元のものだと思う。さらにおいしいことに、これは大人になり失うものができればできるほど出来ないことだと思っている。

身近な話で言えば一人で居酒屋に行く、一人でスキューバダイビングに行くような所謂少し大人びた行動だと思う。

つまり若者にとって、年相応ではない経験を積むことは逆説的に年相応の事ではないかと思う。

 

とりあえず今の自分(21年12月時点)の見解としては

悔しさ×突発的行動=成長

 

この方程式を頭に据えながら、僕は今も高級旅館について調べている。

#8綺麗なものを綺麗と言えない

例えば結婚式場の近くをあなたは一人で歩いているとします。そして、その式場では純白のドレスに身を包み、一生を共にするパートナーと腕を組み幸せいっぱいの笑顔で歩いている花嫁がいたとします。そんな花嫁を見てあなたはなんと思いますか。あなたが幸せを呪う様なひねくれた性格をしていない限りは「綺麗」と感じるでしょう。それは僕も同じです。というか「綺麗」以外の感想があるのか、とさえ思います。

では、その場をあなたと友達の2人で歩いていたとします。そこで友達が「あ、花嫁だ」と言います。するとあなたは何と答えるでしょうか。先の質問で「綺麗」と答えた人の大半はその場でも「綺麗」と答えるでしょう。しかし僕はその場では「白いなぁ」と答えてしまいます。意味がわかりません。自分でも全くわかりません。

 

では、何故僕はその場にいるのが1人か2人かという条件だけで答えが変わってしまうのでしょうか。恐らく僕は自分の答え方ひとつで、その答えを聞く相手の中の僕の印象が変わってしまうと考えているからです。そして、綺麗なものを見て「綺麗」と答えてしまう僕が薄っぺらい人間と思われたくないがために「綺麗」以外の答えを一瞬考えるのです。しかし、自分の語彙の中から「綺麗」以上の答えが見つからず、結局視覚的に感じた白をそのまま口で発してしまうのです。その場で起こっている会話だけを見ると、「あ、花嫁だ」「白いなぁ」ということになります。非常に気持ちの悪い会話です。とても心のある人間の会話だとは思えません。

 

ここでひとつ考えを進めてみます。何故僕は感じたことをそのまま口に出すと薄っぺらい人間と思われてしまうと考えているのでしょうか。それは偏に自己肯定感の低さによるものだと僕は思いました。自己肯定感が低いので、ありのままの自分では相手に認めてもらえない、素の自分を出せば相手に一歩引かれてしまうと考えてしまうのです。さらにタチの悪いことにその低さのせいで相対的に相手のことが素晴らしいよく出来すぎた人間に思えてくるのです。暗い。非常に暗い考えです。僕がそいつに「お前も頑張って生きているよ!」と言って励ましてやりたくなるほどに暗いです。

そして、その自己肯定感はさらに悪影響を及ぼします。それは、ありのままの僕では足りないので相手の中の僕を操作して、理想の「僕」に近づけてしまおうとするのです。つまり、僕の言動全てを架空の理想の「僕」がするであろう言動に寄せるのです。まああっさり言えば、超背伸びして自分をよく見せようとするのです。それもふくらはぎの筋が伸びきってしまうくらいの背伸びをします。これはある程度自己肯定感が高まってきた今だから言えるのですが、非常にしんどいです。楽しい時間なはずなのに窮屈です。一挙手一投足が試されている気がして一瞬も気が休まりません。リラックスとは真逆の状態です。

自分がそんな状態でぴりぴりしているのに相手と良い関係なんか気づけるわけがないんですよね。だって相手の発言、行動なんか二の次なんですもの。さらに、自分が自分の全ての発言全ての行動に対して思考して意味を持たせているので、相手の発言と行動にも意味を探してしまうのです。その存在しない意味を考えるのにも脳のキャパを使うので、もう解散した時にはカフェで30分くらいはぼっーとしてしまう始末です。大変情けない。

 

結局相手と良好な関係を築くには相手をよく見て、相手と「僕」ではなく僕が会話を交わす。そして相手を知り、「僕」ではなく僕を知ってもらう。これに尽きると思います。

こんなことハナから知っているという人の方が多いと思います。でも馬鹿で自己肯定感の低い僕はこんな風に実際に経験して、頭で考えて理解してからしか飲み込めないのです。

とりあえず今の僕は、次回花嫁を見た時友達に僕が「綺麗だね」と言えるといいなと思うばかりです。

 

 

#7 どこのラインから友達か

 

 

 

これはずっと僕が考え続けていることの1つなのですが、題名にもあるように「どこのラインから友達と呼べるのか」ということについてです。

 

 

これは人によって大きく異なると思います。

ある人は、挨拶した瞬間から友達という人もいるし、

またある人は、お互いが腹を割って話せるようになるまで友達と呼ばない人もいます。

 

 

僕は後者までとはいかないですが、ある程度の深い話をできるようになって初めてその人を友達として認めることにしています。(上からのように見えるかもしれませんが)

というか、勝手にそうなりました。

 

自分なりになぜそのようなラインを設けるかを考えました。

その結果、「自分のことが好きだから」という考えに至りました。

 

だいぶ、話が飛んでいますね。

 

まぁ自分のことが好きというより、傷つきたくない、自己嫌悪に陥りたくない

というほうが正しいのかもしれません。

 

人に嫌われたくない

人が自分のことをうざいと思ってたらいやだ

自分が友達と思っていた人に裏切られて自分が傷つくのが怖い

 

だから、ある程度親密になって自分がその人の元から離れず、相手が自分から離れないと確信できるようになるまでその人のことを友達と呼ぶことができない

 

という感じですね。

 

まぁ総括してみれば、僕は人の気持ちを考えるフリして自分のことしか考えてない自己中クソやろーなのかもしれません。

 

 

つらつら書いてきましたが、これは僕の考えをある程度整理するために書いてるだけなので、読んでくれただけでもありがたいです。

 

(あぁ、これを読んだ人が気分を害して、僕のことをうざいとおもったらいやだな)